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【先生コラム 探究のまど】第17回 「走れメロス」を探究してみませんか?

2026.04.10更新学科レポート
[初等教育学科][中等教育学科]

~教育学部の先生たちが日々の中でふと感じたことをつぶやくコラムです~

 私が現在研究対象としている太宰治の職業作家としての活動期間は1933年から1948年までの約15年間ですが、これは日本の戦争の時代と重なります。当時は、内務省(占領期はGHQ)による事前の削除命令や発売禁止処分といった検閲が日常的に行われていました。

 検閲の基準は詳細に示されなかったため、作家や編集者は当局の意向を忖度し、表現を自主的に規制するようになりました。検閲が内面化されていったのです。中学国語教科書の定番である「走れメロス」(1940年発表)も、こうした言論状況下で世に送り出された作品です。

 かつて中学校の授業で本作を取り上げた際、生徒たちからは不評でした。「嫌いだ」と公言する生徒もいました。国語の授業では様々な事情から「友情と信頼のために走るメロス」という定石が強調されがちですが、生徒たちはその「正しい道徳」の押し付けがましさに、本能的な違和感を抱いていたのでしょう。当時の私には、その違和感を作品の深層へと繋げる手腕が不足していました。
 もし改めて独自の授業を行うならば、注目したいのはメロスではなく暴君・ディオニス王です。物語の終盤、刑場に間に合ったメロスたちを見て王は改心し、民衆からは「王様万歳!」という歓声が起こります。恐怖政治を強いていた独裁者が、一瞬にして民衆の自発的な支持を得る存在へと変貌したのです。これは鮮やかな権力強化のプロセスといえます。

 しかし、小説の展開としては明らかに不自然です。民衆は、王に家族や友人を殺された過去をすっかり忘れています。それは「メロスが必死に走って間に合った」という感動によるものでしょう。王が本当に改心したかは不明です。物語には「その後」が書かれていないからです。

 近年の研究ではこのようなことが指摘されています。本作が発表された1940年は、本来なら東京オリンピックが開催されるはずの年でした。その前の1936年ベルリン大会は、ナチスがスポーツの感動を国威発揚独裁体制正当化に利用したことで知られています。本作は「スポーツの感動が権力強化に加担する構造」を描いた物語として読めるのです。

 改めて読み返すと、冒頭に「メロスには政治がわからぬ」とあり、ひたすら走る場面には「メロスの頭は、からっぽだ」とも記されています。政治に無知な若者が、思考を停止して「正義」のために走り続け、結果として独裁体制に手を貸してしまう。前述の中学の生徒が言った「メロスはロボットみたいだ」という言葉は、案外、この作品の本質を突いていたのかもしれません。

 戦時下の作家は、検閲を潜り抜けるために「わかる人にだけ伝わる」表現を模索したといいます。「走れメロス」を感動と権力が結びつく危うさを描いた政治劇として読み直すとき、本作は道徳劇とは異なる普遍性を備えた作品として立ち上がってきます。

(中等教育学科 野口 尚志)