2024.10.24更新学科レポート [初等教育学科][中等教育学科]
私のところ(朱熹の家塾)では、講義の時間は少なく、実践の時間が多い。物事は全て君が自分自身で取り組み、自分自身で考え、自ら己を養っていかなければいけない。書物も君自身が自ら読み、道理も君自身が自ら探究しなければならない。私は単なる道案内人であり、君の成長の見届け人に過ぎない。疑問や問題があれば、君と一緒に考えるだけだ。(『朱子語類』巻13)【※】
南宋の思想家朱熹(しゅ・き、1130-1200)の言葉に次のようなものがあります。
私のところ(朱熹の家塾)では、講義の時間は少なく、実践の時間が多い。物事は全て君が自分自身で取り組み、自分自身で考え、自ら己を養っていかなければいけない。書物も君自身が自ら読み、道理も君自身が自ら探究しなければならない。私は単なる道案内人であり、君の成長の見届け人に過ぎない。疑問や問題があれば、君と一緒に考えるだけだ。(『朱子語類』巻13)【※】
現在の学校教育では生徒自身による主体的な学びが重要とされ、教師はそのファシリテータであることが求められます。ここで朱熹が述べる教師像は、これからの教師に求められるファシリテータとしての教師にほかなりません。 人が人を教え育てる教育という営みは、いつの時代、どんな場所においても行われてきた、人類にとって普遍(かつ不変)の営みです。そこで直面する問題もまた、普遍かつ不変のものといえるでしょう。教育に関する議論は、ともすれば「これまでの教育はよろしくない、これからの教育は……!」という論調になることもありますが、「これから」の教師に求められる力とは、古代から繰り返し唱えられていたことでもあるのです。古典の中には、現代に通ずる問題やそれを解決するヒントがたくさん残されています。 教師とは常に目の前の生きた生徒たちという「最新」の問題に取り組み続ける仕事です。しかし、目の前ばかりを見ていると、つい視野が狭くなってしまうこともあります。一方、大学では腰を据えてじっくりと「教師とは、教育とは」という問題と向き合い、考えることができます。ぜひ、時間や場所を超越した広い視野で、文字通り「長い目」で、教育というものを考えてみましょう。そのとき、皆さんが「古いもの」と思っている古典も、きっと皆さんの明日の助けになってくれるでしょう。
【※】(宋)黎靖徳[編]・王星賢[点校]『朱子語類』(理学叢書、中華書局、1986年)第一冊。原文は次の通り。「某此間、講說時少、踐履時多。事事都用你自去理會、自去體察、自去涵養。書用你自去讀、道理用你自去究索。某只是做得箇引路底人、做得箇證明底人、有疑難處、同商量而已。(僩)」。訳文は三浦國雄『「朱子語類」抄』(講談社学術文庫、2008年)を参考にした。
(中等教育学科 奥野 新太郎 [漢文学])